2013年8月18日日曜日

Le Cirque Paradiso vol.1 -ピンク色の誘惑-








ボワン!

と、クッション越しの爆発音といった感じの———
低く鈍めの大きな音と、外から聞こえる騒めきでヒョクチェは寝返りを打った。


——キャラバンの原動機の音だ。


「ん……」



目をつぶったまま頭をぶるっと振ると、ヒョクチェはピンク色の髪からちょこんと
飛び出している豹の耳をぺたんと伏せる。

すると、頭上から大きくて温かい手の平が降りて来た。


「まだ、寝てなさい」


手の平が、優しくヒョクチェの髪を梳いて。
一瞬だけ唇に触れた。


返事の代わりに、ヒョクチェは長いしっぽで二度、パタパタと床を叩く。


「あと少しで町に着く。着いたらすぐに荷解きだから、活躍してもらうよ。」
低く穏やかな笑いが、ヒョクチェの耳に優しく響く。


眠ろうと思ったが、もう少しその声が聞きたくて。
サーカスの積み荷の横でヒョクチェは寝返りを打ち、上半身を起こした。
沢山の豪奢なクッションを敷き詰めてある幌馬車の荷台は
移動の揺れを差し引いても随分心地が良い。

幌の継ぎ目から入る光で読書をしているシウォンの横顔を見上げて
ヒョクチェは喉を鳴らした。

「荷解きも終わるまで寝てる……」

「ふむ、じゃあ起きない眠り姫にはには夕飯も必要無いな。」
ページをめくる手を止めずに、シウォンは少しだけ微笑み呟く。

「やだ」

「起きたのなら衣装の手入れでもしてなさい」

「寝るんだってば」
シウォンの本を勢い良く取り上げて放り投げると
ヒョクチェはシウォンの膝の上にピンク色の頭をボスンと突っ込んだ。

「……夕飯は、抜きだ。」

「じゃあ、お前を食べる。」

グゥと小さく獣の声で唸ると、ヒョクチェはシウォンの太腿に噛み付く。

「痛っ……」

シウォンが咄嗟にその顎を掴んで上を向かせると、ピンク色の可愛い唇からは
二つの鋭い歯が覗いていた。

「本当に……悪い子だな。」

ヒョクチェは舌なめずりをして、口をもう少しだけ開いて、目を瞑った。

ふ、とシウォンがため息をつき、背を屈めてヒョクチェの唇に己の唇を重ねる。

ヒョクチェが喉を鳴らす音が聞こえて。
唇が重なり、離れ、そしてまた重なり、舌が絡み合う音で二人の脳内は満たされた。


「揺れるよ!」

外から御者の声が聞こえる。
女性の甲高い声が、後続のキャラバンからもっと良い道は無かったの!
と捲し立てていた。


けれど、もう、絡み合う二人にはどの声も音も揺れも届かず———

荒い吐息と噛み付き合うような行為で、 クッションの海の中に沈んで行った。









Le Cirque Paradiso vol.1 -ピンク色の誘惑-


















ドンへは一日の仕事を終えて、町の外れを一人ぶらぶらと歩いていた。
夕暮れ、赤くて大きい。



見慣れ過ぎた田舎の世界。
何一つ代わり映えせず、今日も賃金を手に町へ繰り出す人達の喧噪から
逃げるように町外れに駆け出してきた。


まだ明るいのに、仕掛けの狂った街灯がちらほらと光を灯し始めている。
少ないが一日を凌ぐのには充分なコインを、投げたり転がしたりしてもてあそび
一つコインを落としてしまってそれを追いかける。




ドンへの住む町は、辺鄙な山の中にある。
生地を扱う手工業や農業を営む物が多く、あまり裕福では無い小さな町だ。


ただ、この地域は山の反対側に広がる海を眺めるには絶好の土地で
丘の上にはお金持ち達が暖かい季節だけ入れ替わり立ち替わりに滞在する屋敷群がある。
丘のてっぺんには大昔の領主が残した城が残っていて、そこでは時折大きな舞踏会
なんかが行われる。

勿論お金持ちの人達だけの。
それ以外では、年間を通じてとても静かな町だった。


そうは言っても小さな町中は田舎特有の活気に満ちあふれていて、家に帰ったとて
最近では家族の喧嘩と、近所の女達の騒がしい客引きに耳が痛い。




あった、と落としたコインを草の間に見つけて、かを屈めたその時———
なんだか音楽のような——微かな音がドンへの耳をかすめる。

アコーディオン?

なんだろう、 ドンへは屈んだまま顔を上げ、周りを見回す。

耳を澄ましていると、懐かしいような、哀しげな音楽が形を為して行く。

こんなとこには、バルも何も無いはずなのに。

パーティ?楽団?

込み上げる好奇心をかき立てられ、ドンへは丘を駆け、そして小さな森を抜ける。
聞こえる音が、声がどんどん増えて行く。

いつもの静かな田舎道を彩った微かなメロディに期待が膨らみ、目を輝かせて。

勇み足で森を抜け出た瞬間、ドンへは足に急ブレーキをかけて転びそうになった。



そして、視界に、信じられないものが飛び込んで来る。



—————そこには、見た事も無いような大きな、けばけばしいテントが……
立っていた。

赤、黄色、紫、金色の。
存在していた、という方がしっくり来るほどに、大きくて。

その周りでは、沢山の人達が忙しなく行き交っていて
荷物を運んで怒号を飛ばしている。

微かだった色々な存在が、一気に目の前に現われて。

夢なのかと思うほどに、極彩色だった。



———そこに広場があるなんて今まで知りもしなかった。

むしろ、森はここで終わっていただろうか?と一瞬思ったが、その隙にも
ドンへの目の前を大きな箱を抱えた少年が横切って行く。


「どいて!」

驚いてドンヘは後ろに2,3歩後ずさる。

その少年が歩いた後を箱から散ったのか、小さな紙吹雪が尾を引くように散った。

懐かしいような悲しい色どりの、カラフルな電球が輝き、紙吹雪がはらはらと
土の上を舞い落ちる。

見渡すと、大きなテントの裏手には人々が出入りするキャラバンの馬車や車が
無数に停まっていた。

先程聞こえていた音楽や、恐ろしげな咆哮のような物までそちらから聞こえて来る。


ドンへは、恐る恐るそちらへと歩みを進めた。




「何をしてるの!!」

裏手に差し掛かった時、大きな声が背後から降り掛かる。
ドンヘは心臓が止まりそうになりながら振り返ると、背の高い異国風の男性が
立っていた。
背と声で男性だと思ったが、美しい顔に、きらびやかな赤い中国のドレスを着た
その姿はまるで女のようだった。

そこに居る言い訳を考えていると、ドンへの脇をまた背の高い少年がしゅんと
肩をすくめてその人のそばに歩み寄る。


「ごめんなさい…」

「あんた、さぼってた……」
 ため息をつきながらその男は額に手をやる。

「違うんだよ、ミーミ。僕ちょっと疲れちゃって一息、」

「みんな一緒よ、長旅の後だもの。今度さぼったらヒョクチェに頼んで
鞭をくれてやるからね」

「ひっ、やめてよあいつの鞭は団長仕込みで本当に怖いんだから」

「それだけじゃないわよ。あの子の牙で……」
 背の高い、ミーミと呼ばれたその男がふ、とこちらを見やる。

「あら、あんた何」

「えっ……と」
 少年もまた、ドンヘを振り返りまじまじと顔を見つめて来る。

「見かけない子ね、新入りなの?」

「いや、えっと、」

「あんたもサボりなの? でも、あんたなんだか……」

「お前、新入りなの」

あどけない顔の少年がドンヘに近付き、上から下まで眺めて来る。

「ヘンリー!あんたはテントの設営に戻りなさい。」

「なんだよ!こいつやる事無いんじゃないの、僕の仕事手伝わせていいだろ」

「いいからホラ!行きなさい!」

「チェッ、分かったよ!」

矢継ぎ早の会話に目をきょろきょろさせながらドンへは息を呑んでいた。
怒られる。
忍び込んで、泥棒だと思われたらどうしよう。

少年が帽子を被り直してパタパタと駆け出して行くと、背の高い男が片手で煙管を
口に運びながら、目を細めてドンヘを眺めた。

「あのう……俺」
 ふーっと赤い唇から紫煙を吐き出すと、小さくその男は微笑んだ。
三日月型の大きな目がニッと笑った形に歪められ口元まで微笑みが伝染する。

「あんた、この町の子ね、きっと。」

「は、い…すいません。何があってるのか、見たくって…」
ボソボソとドンヘは口の中で言葉を転がす。

「やっぱり。」

「……。」
下を向いて、出て行けと言われるのを予期して、残念な気持ちでドンへの胸が
一杯になって行く。

「それで、なんだと思った?」

「え……。……カーニヴァル……?」

「ぷっ、カーニヴァル!!」

「違うの?」

「そんな平和な物じゃあ無いわよ。ふふっカーニヴァル……。」
 
否定されてクスクスと笑われている事が腑に落ちなくて、ドンへは頭を捻る。

そうしていると、 横をキラキラのスパンコールの服を小脇に抱えた少女達が
小走りで笑いながら駆け抜けて行く。
でも、その足取りはバレエにも似たステップで、まるで妖精達のようだった。
まるで別世界のような全ての光景に、ドンへは目が眩みそうになる。

空は夕暮れに闇が滲み始め、キラキラと輝く色とりどりの電球が 心を騒がせて。


「———見蕩れてるの?」

「あっ、すみません……」

「あの子達は、群舞の少女達よ。私の歌の後ろで踊るの。」

「歌……」

「あんた、ちょっとついてらっしゃい。」

「え?」

「こっちよ、ああ、あたしはミーミ。みんなそう呼ぶわ。」

「おっ、俺はドンへ」

「そう、ドンへ、こっちよ…」

ミーミは、どんどん滑るような足取りで不思議な古びた形のキャラバンの蒸気車や
馬車の奥へと進んで行く。

小さな小人のような男が大きな気球のような物を引きずり、擦れ違う。
沢山の、中くらいのテントが張られた区域へとミーミが歩を滑り込ませて行く。
年代物で、でもしっかりとした生地の、これもまた色とりどりのテント群が
風にはたはたと生地をパタつかせていた。

ボワン!と大きな音がして、蒸気車の後ろの方から火炎が上がり
低い叫びが聞こえた。
先程の少年の時のように、辺り一帯に風圧で紙吹雪が舞い散る。

「まぁ、まぁ、ドンヒは本当に大雑把なんだから。」

ミーミが呟きながらスイスイと紙吹雪を払いながら進み続ける。

最初に聞いた音楽が、どんどん近付いて来る。

「音楽……」
ドンへは無意識に呟く。

その時、正面を向いた瞬間ミーミに思い切り顔をぶつける。

なんだか嗅いだ事の無い花のような良い香りがした。

「あんた、中々のトンマだわねぇ……」
ミーミはドンヘを引き剥がすと、トン、とドンへの身体を押す。

勢いで前に進み出たドンへは、たき火が焚かれて少しだけ開けた場所に
立っていた。




沈む瞬間の太陽が、往生際悪く、熟し過ぎた果実のように
ギラギラと空の裾に立ちこめている。

でも、もう、夜の軍勢がそれを押しのけてしまう。

闇の支配下に、太陽は平伏し、朝まで顔を隠す。

短い、夏の、闇の時間が始まる。




ぼーっとしている間に、ミーミは小さく笑いながら、誰かに何かを言い残して
踵を返してどこかへ行ってしまった。

言われるが侭に連れて来られ、取り残されたドンへは何がなんだか分からずに
心細さと期待感に心臓が爆発しそうになりながら周りを見回した。


小さな広場になった中央で、大きな焚き火が燃えている。
暑い夏を助長するようにそこは熱い熱気に満たされていて。


その端で、綺麗な顔をしたドンへと同い年くらいに見える青年が
アコーディオンを奏でていた。

その横では、細身の少女が体をくねらせて無心に踊りを踊っている。
ふわりとした衣装を身につけて悲哀に満ちた顔で体を不思議に曲げて。
悲しみで一杯の音楽に、それに同化するかのような少女に、息が詰まって。

その内に、淡い紫色の髪をした華奢な少年がドンへの横に立っていた。

「こっち……」

「え…」

「この奥のテント……」
指をさすと、少年はまた別のテントの合間へとたちまち姿を消してしまう。

人が現われては消える。

いつの間にか、ドンへはこの一団の最奥まで来てしまったようだった。

「あ、……」

 ドンへがその最奥のテントに入っても良いのか考えあぐねていると、後ろから
低い獣の咆哮のような声が聞こえる。

”ぐるる……”

「ひっ」

振り返るのが怖くて、この世界なら何でも起きてしまう気がして
次の瞬間には自分が何か大きな獣に食いちぎられてしまう気がして
ドンへは黒くて大きな最奥のテントに飛び込んだ。



薄暗いテントの中で肩で息をすると、ドンへは息を呑む。

何重にも垂れ下がる重い布の先に、ゆらゆらとキャンドルが揺れている。
むせ返りそうな濃い、火と、甘い、何か香り。
外の悲しげなアコーディオンの音がまだ、聞こえて来る。


明るい、キャンドルの燃えるその場所には、あきらかに人が居た。


立ちこめる甘い香りとただならぬ雰囲気。
ドンヘは奥に進もうとして、足を止めた。


”愛してる、愛してる……”

 鼻にかかった若い男の声。



”そこ…はぁ……気持ち良い………”

ドンへは立ち竦み、雰囲気に圧倒されて体が一気に熱くなってくるのを感じた。



蝋燭が揺れ、瞬間白い布に、中の人間のシルエットが浮かび上がる。

大きなシルクハットを被った黒い影が、椅子に腰を下ろしていて
その上に少し細めの人の影が跨がっていた。

細めの影の手が荒々しく大きな影の方の頭を掴んで、激しく腰を揺らしていた。


「あぁ………はぁ……」


声が、布越しにまるで映写機を見ているような感覚だったものが、
影とともに実体を帯びて。

ドンへの体中の血がゆっくりと中心に向かって固まっていく。

淫媚で甘い声と、テントの中に立ちこめる濃厚なエキゾチックな香りに
脳天が痺れて。

細身の影のしなやかな足が左右にグッと開いて行き、途切れ途切れの声が。

震えた。

黒く大きな影の両手が細い影に回され、力強く抱きしめる。
そして腰を掴み少しだけ持ち上げると、垂直にまた降ろして。

「綺麗だ、ヒョクチェ……」

「あっ……あ シウォン……」

力強く、しなやかな二人の影の動きが、人間の肉体がどれほど美しいものかを
ドンヘに見せつける。

「ひっ……あっ…」

細い人影が震えたかと思うと、ドンへは目を疑った。

火照った体がドキリと衝撃ではねる。

細身の体の腰の辺りから、ゆるりと長い尾のようなものが揺れていたのだ。

その尾は、持ち主の体が脱力して大きな影に抱きとめられる中、くねりながら
大きな影の足に巻き付いた。

「ワッ……!」

つい、ドンへは声を出してしまう。
そして、中の影が驚いたように跳ね、獣のようなうめき声と共に大きな影が
こちらへと動く。


「誰だ」


ドンへは、飛び出して逃げるか、このままここで恐ろしげな生き物に捕まるのか
考えを巡らせながら、大声で叫び出しそうになった。






 

To be continued...









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